「専門医を取ったのに、次に何を目指せばいいのか分からない」
一方で、よく聞くのが「専門医取得はゴールではなく、スタートラインだ」という言葉です。
しかし、将来、診療科を率いたり、研究チームのリーダーになったりすることを目指すのであれば、そのスタートラインに立つまで待っていては遅すぎるかもしれません。
なぜなら、専門医として評価される能力と、その先の役割で求められる能力は、必ずしも同じではないからです。
1. What Got You Here Won’t Get You There
世界的なエグゼクティブコーチとして知られるマーシャル・ゴールドスミスに、次の言葉があります。
“What got you here won’t get you there.”
「これまでの成功をもたらしたものが、次の成功をもたらすとは限らない」
これは、ゴールドスミスの著書のタイトルでもあります。
彼が指摘しているのは、これまで成功を支えてきた能力や行動習慣が、次のステージでも役立つとは限らず、ときには成長を妨げることさえあるということです。
医師のキャリアにも、同じことが言えるのではないでしょうか。
専門医として評価されるためには、医学知識を深め、診断能力や治療技術を磨くことが重要です。
しかし、診療科長や部長といった指導的な役割を目指すのであれば、自分自身が優れた診療を行えることに加えて、他者の能力を引き出し、チームや組織全体の成果を高めることが求められます。
ときには、これまで評価されてきた行動が、次の役割では逆効果になることさえあります。
例えば、他の医師より早く正確な診断を下すことは、専門医として大きな強みです。しかし、自分の判断の正しさを示すことにこだわり、他者の間違いを一方的に指摘するようになれば、その振る舞いは組織内の協働を妨げるかもしれません。
専門性を高めることと、その専門性を使って他者や組織の成果を高めることは、異なる能力なのです。
この違いを、私自身が強く意識したのは、研究に取り組んでいたときでした。
2. 自分で研究成果を出すことから、人と成果を出すことへ
研究者として、自分の研究を進め、論文を書くことは重要です。
研究テーマを考え、実験や解析を行い、得られた結果を論文として発表する。そのためには、専門知識だけでなく、問題設定能力や分析力、粘り強さが求められます。
しかし、将来PI(Principal Investigator:研究責任者)として研究チームを率いるのであれば、自分自身が成果を出す能力だけでは十分ではありません。
研究の方向性を示し、他の研究者を育成し、それぞれの強みを生かしながら、チーム全体として研究成果を生み出す能力が必要になります。
私はPIを目指していた時期から、他の人の研究を指導したり、論文執筆をサポートしたりすることに取り組んでいました。
正式な指導上の役職がなくても、個々のプロジェクトの中で指導や支援を担い、一緒に研究を進めることはできます。
また、自分の研究についても、すべてを一人で抱えるのではなく、一部を他のメンバーに任せ、一緒に進めるようにしました。
自分で行えば済む仕事を、人に任せる。
相手に研究の目的や背景を説明し、進め方を共有する。期待していた結果と異なれば、一緒に原因を考える。ときには、自分で行うより時間がかかることもあります。
しかし、それは単なる仕事の分担ではありませんでした。
他者の経験や能力を理解し、役割を分担し、必要な支援を行いながら成果につなげる。将来PIとして求められる能力を実践する機会だったのです。
その結果、一人で取り組む場合よりも、進められる研究の量を増やすことができました。
自分が成果を出すことに加えて、他の人が成果を出せるようにする。
PIになってから初めてその仕事を始めるのではなく、PIを目指している段階から、その役割の一部を担っていたのです。
3. 次の役割は、今の立場から経験できる
後に製薬企業のメディカルアフェアーズで働いたときにも、この考え方は共通していました。
個人として成果を出すことと、人を育て、チームの成果に責任を持つことは、同じではありません。
そこで、ピープルマネージャーを目指す段階から、部門を横断する非公式なプロジェクトの運営や、経験の浅いメンバーの支援、メンタリングなどに取り組みました。
正式な上司ではないため、役職を根拠に指示することはできません。
相手の目標や事情を理解し、共通の目的を見つけ、協力してもらう必要があります。
自分の専門性や経験を一方的に伝えるのではなく、相手自身が納得して行動できるよう支援する。
そうした経験が、人を育て、チームで成果を出すための練習になりました。
研究でも、製薬企業での仕事でも、共通していたのは、次の役割に就くのを待たずに、その役割で求められる仕事を経験することでした。
これは、臨床医としてのキャリアにも当てはまります。
4. 自分の正しさを証明することと、組織を正しい方向へ導くことは違う
臨床現場でも、こんな医師を見聞きしたことはないでしょうか。
手術がうまい。診断能力も高い。救急外来でも難しい症例に的確に対応できる。
専門医としては、誰もが認める優秀な医師です。
しかし、他の診療科からコンサルトを受けると、不満を口にする。
救急外来から入院を依頼された際に、「これはうちの科の疾患ではない」と突き返してしまう。
あるいは、救急担当医の判断に誤りがあったとき、人前でその間違いを指摘し、相手の面目を失わせてしまう。
もちろん、専門医として誤った判断を修正することは重要です。医学的に不適切な判断を受け入れる必要も、すべての入院依頼を無条件に引き受ける必要もありません。
問題は、その伝え方と、その後の行動です。
例えば、「どうしてこんなことも分からないのですか」と相手を責めれば、その場では自分の正しさを示せるかもしれません。
しかし、相手が次から相談をためらうようになれば、結果として患者に不利益が生じる可能性があります。
一方で、相手が何を心配し、どの情報をもとに判断したのかを確認したうえで、医学的な根拠を説明し、適切な対応方針を一緒に考えることもできます。
これは、相手の意見を無条件に受け入れることではありません。
必要なときには明確に異議を唱えながら、相手がその理由を理解し、より適切な行動につなげられるようにすることです。
自分の正しさを証明することと、正しい方向へ周囲を導くことは、異なる能力です。
さらに、診療科を率いる立場になれば、自分の診療科だけでなく、病院全体の視点が求められます。
自分の診療科の負担を減らすことが、必ずしも病院全体にとって最善とは限りません。
それぞれの専門性や事情を理解しながら、患者と組織にとって何が最善なのかを考え、実行可能な結論へと導く。
つまり、個人最適から全体最適への転換です。
優れたリーダーとは、対立を避ける人ではありません。必要な対立を適切に扱い、組織としてより良い結論に到達できる人なのです。
5. 専門医資格と違い、その先の椅子には限りがある
専門医取得後のキャリアを考えるうえで、もう一つ忘れてはいけないことがあります。
それは、指導的なポジションには数の制約があるということです。
専門医資格は、定められた要件を満たし、必要な審査や試験に合格すれば取得できます。
しかし、診療科長や部長、教授などのポジションは違います。
どれほど努力し、優秀な専門医になっても、全員がそうした役職に就けるわけではありません。
限られた椅子を、複数の候補者が目指すことになります。
そして、その候補者たちも、当然ながら優秀な専門医です。
専門性が高いことは重要ですが、それだけでは他の候補者との違いを示せないかもしれません。
他の診療科から信頼されているか。後輩を育てられるか。病院全体の課題を理解し、異なる意見を持つ人たちを調整できるか。
そうした能力や実績も、次の役割を任せるうえで重要な判断材料になります。
もちろん、人事には組織の事情やタイミングも関係するため、能力を備えていれば必ず希望する役職に就けるわけではありません。
それでも、早い段階から準備し、実績を積み重ねておくことは、将来の選択肢を広げます。
あなたが努力している間、他の人も努力しています。
同じように専門性を磨きながら、次の役割で必要な能力も育てている医師がいるかもしれません。
だからこそ、努力の量だけでなく、努力を始める時期と、その方向が重要なのです。
6. 目指す役割によって、努力の方向は変わる
ここまで、研究を率いたり、人を育てたりする役割を中心に考えてきました。
しかし、全員が部長や教授を目指す必要はありません。
専門領域の難しい症例に向き合い続ける。教育に力を注ぐ。地域医療を支える。企業や患者会など、病院の外で専門性を生かす。
どの役割を目指すかによって、必要な経験は変わります。
診療部長を目指すのであれば、診療科を越えて組織全体を見渡し、限られた資源を配分する能力が求められます。
研究を率いるなら、自ら研究成果を上げる力に加えて、研究テーマを示し、メンバーを育成する力が必要です。
教育責任者を目指すなら、知識を伝えるだけでなく、学習者の成長を支援し、教育の質を改善する力が求められます。
医療機関の運営に関わるなら、財務や人材、業務改善、地域との連携などを含めて判断する力も必要になります。
大切なのは、どの役割が優れているかではなく、自分が目指す役割に必要な能力を見極めることです。
そして、その役割に近い経験を積むことは、将来の準備になるだけではありません。
実際にやってみることで、その仕事が自分に合うのか、何にやりがいを感じるのかを知る機会にもなります。
7. 今の仕事の中から始められること
次のキャリアに向けた準備は、新しい仕事を際限なく増やすことではありません。
今取り組んでいる仕事への関わり方を変えることからも始められます。
答えを出すだけでなく、相手の判断を支える
後輩から相談を受けたら、今回の正しい答えに加えて、次に似た場面で判断するための考え方を共有する。
自分の知識を、相手が使える形にする経験です。
一人で完結させる仕事を、他者と進めてみる
研究や業務の一部を、目的や役割を共有したうえで他のメンバーに任せ、一緒に進める。
任せることは、仕事を渡して終わることではありません。相手の経験に応じて支援し、進捗を確認しながら成果につなげることも含まれます。
自分の診療科だけでなく、組織全体を見る
他科からのコンサルトでは、自分の専門領域で対応できるかだけでなく、患者にとって適切な診療につなげるにはどうすればよいかを考える。
必要な場合には、医学的な判断を明確に伝えながら、他の診療科や職種と協働して解決策を考えます。
担ってみたい役割を、小さく試す
教育に関心があるなら、後輩一人の学習や研究を継続して支える。
研究を率いたいなら、共同研究の一部で企画や役割分担を担ってみる。
組織運営に関心があるなら、身近な業務改善や部門をまたぐ取り組みに関わる。
正式な役職がなくても、次の役割に必要な経験を積むことはできます。
8. 専門医取得を、次のキャリアのスタートラインにしない
“What got you here won’t get you there.”
これまでの成功をもたらしたものが、次の成功をもたらすとは限らない。
専門医としての能力を磨くことは重要です。しかし、その先に異なる役割を目指すのであれば、今までとは違う能力も育てる必要があります。
そして、その準備を専門医取得後に始めるのでは、遅すぎると考えています。
人を育てる力も、他者との信頼関係も、組織全体を見渡す視点も、日々の経験の積み重ねによって育まれるからです。
自分が次にどのような役割を担いたいのかを考え、その役割に必要な能力を見極めること。そして、その能力をできるだけ早く、今の仕事の中で磨き始めることです。
今、あなたが積み重ねている経験は、現在の役割で成果を出すためのものでしょうか。それとも、次に担いたい役割にもつながっているでしょうか。
専門医取得は、専門医としての成長のスタートラインかもしれません。
しかし、専門医取得を、次のキャリアのスタートラインにしていては遅すぎるのです。